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2015年10月03日 (土) | Edit |
昨夜は久し振りに12時を過ぎて就寝した。
7時に起きて身支度を整え、7時半にホテルのレストランに行ったら混んでいて座る席がなかったので、一度部屋まで戻って防寒着を着てホテルの周辺をウォーキングした。
ホテルのすぐそばには大きなスーパーやホームセンターなどのショッピングモールや映画館、スライダープールなどがあった。
それを取り囲むようにアパートや住宅が建ち並んでいた。
8時にホテルに戻ってレストランに行くとも先ほどまでの混み具合が嘘のように空いていた。
集合は9時だったが、9時前に全員が集合しクラクフの歴史地区の見学に出かけた。
バスで約30分でクラクフの旧市街入口まで行った。
昨日列車でクラクフに着いた時は、道路は車であふれていたが、今日は土曜日ということで車の量が減り、目立った渋滞もなく予想以上に早く着いた。
初めに建国の父といわれる人の銅像の建っているところを見学した後、旧市街を囲っていた城壁バルバカンを見学。
建国の父?の像
ワルシャワの旧市街にもバルバカンがあったが、こことは形も違う。
14世紀オスマントルコの進攻を撃退した時に作られた堅固な城塞で、その後は第2次大戦のドイツ進攻によりかなりの部分が破壊されてしまったが、戦後復元されたという。
城壁バルバカン
その時代には城壁の周りには幅20mの堀があったそうだが、今は埋められグリーンベルトになっている。
そのグリーンベルトになっている林を通って城門を抜けるとその先が旧市街となっていた。
城門 城門の先は旧市街
いくつかの歴史的建造物を眺めながら進むと中央市場広場に出た。
旧市街の建造物① 旧市街の建造物②
この広場は、ヨーロッパの中でも最大級の広さの広場といわれるだけあって、ジイが今まで行ったヨーロッパの国々の首都などにある広場の中では一番広く感じた。
中央市場広場① 中央市場広場② 中央市場広場③ 中央市場広場のオブジェ
広場の周りを取り囲む建物を眺めた後、ヨーロッパでは最も古いといわれるヤゲオ大学や聖フランシスコ教会などを入場見学した。
ワルシャワには、同じようにワルシャワ大学があり、かつてポーランドの首都でもあったクラクフにあるこのヤゲオ大学があって、日本でいえば東の東京大学、西の京都大学といった感じのようだ。
ヤゲオ大学構内 聖フランシスコ教会 聖フランシスコ教会内部
旧市街の端にあるバルバカンから反対の端まで歩いた先の丘の上にバベル城がる。
長い上り坂を登った先にお城があった。
11世紀には王の居城となり、その後増築が続けられ、最盛期は16世紀のヤゲオ王朝ジグムント1世、2世時代で、それまでのゴシック建築の上に当時流行したルネッサンス様式が積み重ねられて建築されている。
王室専用のクラクフ大聖堂と並んで建てられている王宮は今は博物館として、当時のジグムント1世たちが収集したタペストリーが、壁にたくさん掛けられていた。
ロシアやドイツの占領時代に多く失われたが、第2次大戦後170枚が戻されたというが、それ以上のものが失われたという。
宮殿博物館の中を30分以上かけて入場見学した。
中では、現地人のガイドが話しかけてきて、日本人の団体は、教育レベルが高いので礼儀正しく見学する…らしきことを言っていた。
坂の上に城 坂の上のヴァヴェル城
最後に、中央市場広場まで戻って、朝のうちは開いていなかった広場の一角にある聖マリア教会を入場観光した。
入場するとたくさんの見学者で身動きがとれないほどの混み方で、讃美歌のような音楽が流れて来て、ガイドの説明で中央にある祭壇が開かれている最中であることが分かった。
装飾がすごかったが、撮影するには別に料金が必要らしいので、カメラには収めず記憶に焼き付けることにした。
聖マリア教会外観
教会の見学の後は、旧市街の中にあるお店でお昼を食べた。
メインは、ロールキャベツというので、日本で食べるようなものをイメージしていたが、外側がぱりぱりしていて、食感は春巻のような感じで意外と美味しかった。
昼食に出たスープ 昼食のロールキャベツ
昼食後は、自由行動とアウシュビッツのあるオシフィエンチムへ行くコースの選択制だったが、ツアー参加者全員がアウシュビッツを選んだので、全員でそちらにでかけた。
バスで約2時間かけて到着、現地のガイドは日本人として、日本人を対象にガイドをしている日本でもよく知られるようになった中谷剛さんだった。
ガイドの中谷さん
ジイは、学生時代にフランクルの「夜と霧」を読んで強制収容所の実態を知り、人間を狂気に走らせる戦争の恐ろしさを知り、それが自分の中では反戦運動にかかわる原点にもなり出発点にもなった。
その意味で、死ぬまでに一度は来てみたい、アウシュビッツを見るまで死ぬに死にきれない、と思っていた。
それがようやく今日現実のものとなった。
収容所に展示されている刈られた女性の髪の毛やおびただしい数の靴やカバンの山などはすでに写真でも見ているし、以前ベルリンの北部にあるザクセンハウゼン収容所を見学した時にも見ているのでそれほど驚きはしなかったが・・・。
ガイドしてくれた日本人の中谷さんが、案内をしながら現在の安倍政権のやっていることが、ドイツで起きた70数年前の狂気につながらないか、ちくりと批判をしていて、まったくの同感だった。
また現在のシリア難民やアフリカ難民の問題にも言及し、積極的平和主義を唱える日本政府が、わずか10数人の何民しか受け入れていない現実にも言及していた。
わずか選挙では30%の支持しかなかったヒットラーが党首のナチスが、他の政党と連立を組んで政権に着くと、反対勢力をスパイ容疑などで次々と抹殺し、ワイマール憲法を治安維持法で骨抜きにしてしまい、経済的苦境に立っていた原因をポーランドやユダヤ人だと煽り立て、それに異を唱える知識人たちもみな抹殺の対象になってしまった。
気が付けばすでにドイツ国民の中にナチスに声を出して異を唱える者もなくなってしまった。
日本の戦時中と今の安倍自公政権とも同じような構造だ。
そして最終的には、アウシュビッツと隣のビルケナウの収容所でユダヤ人の110万人を筆頭に合わせて130万人の人々が死に追いやられた。
こうした残虐な行為が二度と起こらないようヨーロッパでは広く収容所の実態を子どもたちに伝える努力しているのに対し、日本ではいまだに南京大虐殺さえなかったことのように言う自民党の議員がいる。石原慎太郎もその一人だが・・・。
日本には第二次世界大戦で日本軍や日本人が犯してきた戦争犯罪をきちんと受け止めていく風土や、教育がない。
その意味で今度の戦争法案は、限りなく危ない法律になってしまった。
アウシュビッツの収容棟は当初、かつてポーランド軍の兵舎だったものを使って、ポーランド人の知識人や反ドイツの政治犯を収容していた。
収容所の入口には、有名な「働けば自由に」という看板が掲げられていた。
決して自由にも、生きて出ることもできなかった入口だ。
棟の間にはかつて電流も流れていた有刺鉄線が残されていた。当時のものを再現したのだろうが・・・。
ガス室のある場所はさすがにシャッターを切れなかった。
入口にある「働けば自由に」も看板 有刺鉄線 アウシュビッツの収容棟
アウシュビッツを見学した後は、3㎞離れたビルケナウ収容所で見学を続けた。
こちらはアウシュビッツの比較にならないほどの広大な敷地の中にたくさんの木造の収容棟があった。
そのうち現存されているのは一部だが、ここでは収容されずに各国から列車で連れて来られて、財産家事道具をその場で没収され、そのままガス室に送られた人の数のほうが、収容され強制労働された人の数より数倍も多かったという。
その姿を想像するだけで胸が苦しくなる思いだ。
ビルケナウ収容所入口
着いてからバスに乗って帰るまでの2時間20分をしっかり記憶にとどめておきたい。
6時半にクラクフの中心街に戻って、新市街の川の近くのレストランで食事をした。
夕食① 夕食②
食事の後、ポーランドの民族舞踊のフォークロアショーがあった。
一時強制収容所のことを忘れて、踊りと歌に手拍子を合わせて楽しんだ。
途中で踊り手がツアーの人を舞台に招きよせて一緒に踊るようになり、ジイも3番目に指名されて踊った。
踊りなど小学生のころに運動会でフォークダンスを踊って以来で、死ぬまでにこんな恥ずかしいことをするとは思わなかった。
最後は皆で手をつないで踊った。バアも。
フォークロアショー ジイも踊らされた 最後はみんなで踊った
9時にホテルに戻った。いよいよ明日一日観光したらその後は帰国の準備だ。
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