FC2ブログ
2015年12月04日 (金) | Edit |
昨日は寝ている間風が強く、家が揺れるような感じで1、2度目が覚めた。
北風だったのか気温は2℃まで下がっていた。
久し振りに5時に目覚ましをセットして起きたが外は真っ暗だった。
冬至はまだだがとっくに明るい時間より暗い時間のほうが長くなっているようだ。
今日はながのコープで企画してくれた満蒙開拓平和記念館見学ツアーに参加するため、早起きをした。
ながのコープの上田配送センターに7時50分集合になっていたので、家を7時15分に出た。
いつもなら20分もあればいける距離なのだが、ちょうど通勤時間帯にぶつかってしまったようで30分かかってしまった。
大型バスに佐久から来た人たちが先に乗っていて上田から参加した人を入れて40人弱の参加者だった。
8時過ぎに上田配送センターを出発し、近くの上田菅平インターから高速に乗って一路記念館のある阿智村に向かった。
途中更埴ジャンクションから長野自動車道へ、さらに岡谷ジャンクションで中央高速に入った。
阿智村は中央アルプスの東側に沿ってもうその先は愛知県になる県境の村だ。
中央アルプスに沿って走る中央高速は、雪が舞う天気だった。
10時40分に記念館に到着した。
満蒙開拓平和記念館 館内で説明を聞いた
記念館はそれほど大きくないので、二つのグループに分かれて職員の説明と館内ビデオの鑑賞をした。
阿智村をはじめ木曽地域、そして長野県は、満蒙開拓に入植した人数が国内で一番多かった。
理由は貧しさからというよりも、明治。大正時代から海外に向けて進出して行った県民性があったと職員は説明していた。
ただ、満蒙開拓を進めた国策の背景には、それまで日本の主産業だった生糸の単価が世界恐慌で大暴落し、農業収入が極端に減少して、全国的に農家の経済力が失われ、国力も疲弊したため、それを打開する窮余の一策として、中国本土の植民地化が進められたことがある。
日露戦争の勝利で手に入れた中国の一部の領土を拠点に関東軍が満洲国という傀儡政権をでっち上げ、領土を拡大して、その領土を確保するため27万人もの日本人を入植させた。
入植というと、荒れ果てた未開の土地を開墾というイメージを抱いていたが、実際には中国人が所有していた耕作地をなかば強権的に取り上げ、中国人を使役して中国人に代わって耕作するという植民地化そのものの役割を担うものだった。
もちろんソ連国境に近い所には不毛の地もあったようだが・・・。
この満州開拓移民がソ連による終戦直前の満州侵攻によって悲劇の舞台に暗転するのは、周知の歴史だ。
今日は下伊那郡旧河野村の開拓団の一員として昭和19年5月に14歳で単身加わった人の話を聞いた。
この開拓団は入植してわずか1年、2年目の収穫が終わる前に敗戦がわかり、ソ連よりも地元の中国人の襲撃を受けた。
このとき開拓団には、男性はほとんど現地召集されて年老いた団長と障害があって招集されなかった男性とまだ14歳のこの語り部となっている人しか男性はいなかったそうだ。
その中の団長も、他の男性二人が別の開拓団の様子を聞きに行って留守の間に、中国人に襲撃され瀕死の状態だったそうだ。
残された女性や子どもたちは絶望して集団自決をすることを決めたという。
まだ若く力があった14歳の語り部は自決に手を貸して、数十人の首を絞めたと語っていた。
最後に残った男性二人でお互いに顔の額に石を殴りつけ合って出血させ、死を待ったらしい。
何時間も経ってスコールに打たれて息を吹き返したという。
その後3年近く新京、奉天、安東を転々と死と直面する体験を経て引き揚げてきたという。
おそらく地獄の苦しみを体験したに違いない。
それから70年も経て今は淡々と当時のことを語ってくれたが、筆舌に尽くしがたい経験だっただろう。
最後に締めくくりの言葉として「こんな悲惨なことを経験しなければならない戦争は、2度と起こしてはなりません」と語られた。
こんな重たい言葉を語る人がいる傍らで、国民の安心と平和を守るために、と言って戦争法案を押しとおした安倍首相の言葉の軽さが想起された。
語り部の話を聞き終わったときには、すでに2時近くになっていた。
すぐ近くのNPOが運営する食堂で遅いお昼を食べた後、またバスで高速の2か所のサービスエリア、パーキングエリアに立ち寄っただけで5時過ぎに上田配送センターまで戻ってきた。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック