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2021年02月23日 (火) | Edit |
今日は白馬村に行く予定をしていたが、天気予報で一日雪という予報が出ていたので、予定を変更して晴れの予報の南信に行くことにした。
以前に南木曾町にある「桃介橋」という大正時代に架けられた橋を、彩明会の会員が絵に描いて会員展に出品したことがあったので、ぜひ一度じっくり見てみたい、と思っていたのでまずはそこを目指して出かけた。
木曽方面は、以前に秋の信州釣行で何度か行ったことがあった。
東信から行く方法には主に三通りぐらいあるが、今日は三才山トンネルを通って松本から国道19号を南下するコースで行った。
有料道路を使わないコースで初めて走ったが、松本から塩尻を過ぎるまで車が多く時間がかかった。
目的地に着くまで3時間以上かかってしまった。
桃介橋はつり橋というイメージがあったので、それほど大きなものとは思っていなかったが、実際に見てみると大正時代に架けられたものとは思えないほどの長大なものだった。
以下書かれているものを引くと次のようだ。
桃介橋① 桃介橋②
「大正11年9月に完成しました。木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書発電所(大正12年完成)建設の資材運搬路として架けたものです。その後、昭和25年から村道(現在の町道)として、両岸集落の交通や、高校生・中学生の通学など地域の交通に大いに役立っていましたが、昭和53年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前となっていました。この間、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園整備に併せて近代化遺産(南木曽町有形文化財)として復元し、大正時代の長大吊橋の本格的な保存と活用をめざしたものです。桃介橋は全長247m、幅2.7mで、この付近では最大川幅のところにあり、美しく雄大な景観を誇っています。この橋は、木製補剛桁を持った吊橋としては、日本有数の長大橋であり、下部石積み・上部コンクリートの主塔3基を有し、この種の吊橋としては当時(大正時代)我が国の土木技術の粋を集めためずらしい4径間の吊橋となっています。3基の主塔はデザインも大変すぐれており、特に中央の塔からは水辺へ降りる石段が設けられています。また、それぞれの主塔から斜吊索が張られ19世紀末のアメリカの吊り橋によく似ているといわれています。橋の中央に資材運搬用のトロッコのレールが敷かれていたため、その痕跡が分かるように復元してあります。」
吊り橋を往復したあと、木曽川の河川敷まで降りて水辺も眺めた。
白い大小の花こう岩が川の流れの両際に積みあがっていた。
上からはみな白く見えた岩も近くによるといろいろな色やごま模様が入ったりしていた。
ゴマがかかったおにぎりサイズの石をポケットに一つ忍ばせてきた。
木曽川河川敷
この後お昼の時間が過ぎていたので、馬籠宿まで行ってお昼を食べることにした。
途中の妻籠宿は2,3年前に来たことがあるので、その先の馬籠宿にした。
坂の上の駐車場に車を停めて、坂を下りながら歩いた。
一番下のお土産店や大きな駐車場に行く手前の急坂に建つ風情のあるお店でお昼を食べた。
食事処はどこもそばの看板ばかりだったが、ここは栗おこわの看板も出ていた。
馬籠宿 お店
冷たいおそばと暖かいおそばに天ぷら、栗おこわを取り混ぜて注文した。
どれもお腹が空いていたせいかおいしく食べた。
暖かいそば ざるそばに天ぷら 栗おこわ
一番下まで降りたところにある土産店にバアたちを待たせて、ジイだけ車を取りに来た道を登った。
毎日のようにリハビリウォーキングしているとはいえ、ジイでも坂の途中で一息入れなければ登れない坂だった。
息を切らしてようやく車にたどり着いた。
昔は石段があったような記憶だが、今は歩きやすいように道の中央が平板の石畳になっている。
少し風情がなくなってしまった。
まだ奈良井宿や妻籠宿のほうが、宿場の通りらしい雰囲気が残っているように思う。
というか風景画として描く気になれない・・・。
車で大きく回り込む車道を走って下の土産店まで行くと店先で待っていた。
帰りも来た道を同じようにたどって家まで戻った。
やはり行く時と同様塩尻・松本間が渋滞していて、家にたどり着いたら午後6時を過ぎていた。

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