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2016年01月17日 (日) | Edit |
忘れてはいけない日の一つである阪神・淡路大震災の日がやってきた。
直接被害を受けなかったジイたちには、もうあれから21年と歳月の過ぎるのは早いものだと思うものだが、きっと被害にあわれた人や近親者を亡くされた人たちにとっては、その時から時が止まっている部分が心の中にあるに違いない。
その後も大きな自然災害を経験してきているが、そのたびに二度と繰り返してはならない自然災害の中でも人災に当る部分について、それを防げない反省だけが繰り返されている・・・。
今日は兄の四十九日の法要に参列するため、朝6時起きをした。6時ではまだ外が真っ暗だった。
簡単な朝食を取り、外が明るくなった7時過ぎに家を出た。ナビでは3時間15分で目的地のお寺に到着と出ていたので、時間的には十分余裕がある。
ナビより別のルートで行く方法もあったが、今回はナビ通りいけば到着時間の誤差は少ないだろうとナビの指示通りに走った。
途中一度中央道の双葉サービスエリアで休憩をとっただけで、普明寺には10時半少し前に着いた。
11時からの会式には十分間に合う時間だ。堂内では前の組の法要が行われていたので、住職の住まいの一室を借りてフォーマルに着替えた。
親戚一同総勢35人ほどいただろうか、数人は名前が分からない人がいた。
父親や母親の兄弟姉妹は、ほとんど代替わりして、いとこたちになっている。いとこたちの配偶者となると、顔の区別がつかなくなっている。
法要の時に使う経本が新しいものになっていた。和讃という皆で唱えるお経には、楽譜がついていた。パラパラとページをめくると何カ所で楽譜があった。まるで讃美歌のような装いだ。
お経の楽譜
住職が読経の合間に話す話は、母や父の法要の時から相変わらず、ジイの日記と同じで思いつくままに言葉を選ばず、偉そうにしゃべるだけなので、誰の心も打たないようにみえる。せめて起承転結ぐらい筋道付けて話せばいいものを・・・。
20分ほどの法要のあとは、地続きの墓地に行って、納骨式が行われた。墓誌には両親の名前の次に兄の名前も刻印されていた。このお墓にジイの名前が刻まれることも、納骨されることもない。
最初に母が死んだときに建てられたこのお墓の費用の一部をジイが負担すると言ったときに、父や兄から「お前が入れるお墓ではないので負担しなくてもいい」と言われた。その時に感じた疎外感は今でも忘れない。それでは自分の気持ちが収まらないからと言って、無理やりお金を受け取ってもらった。
家父長制を象徴するようなこうしたお墓の長子継承の風習は明治以降のものらしいが、墓地の確保も難しくなり、少子化でお墓の管理もできにくくなっている今日では、いずれ消滅していく風習だろう。
ジイやバアにしても、仏教寺院の境内にお墓を立ててもらうつもりもないし、あらかじめどこかに墓を準備するつもりも今のところない。
以前に樹木葬をしている霊園を見学したこともあったが、子どもたちの住まいからも離れているところだったので、結論をださなかった。墓を造って故人を偲ぶかどうかは、本人ではなく遺族が決めることだと思う。しいていえば、故人がどう思っていたかということなのだろうが、骨はいずれ土に帰るものだし、墓石も苔むして石塊になる、そういうお墓の前でだけ偲んでもらうより、写真1枚だけでも目の届くところに飾ってもらって、時々思い出してもらった方がいいように思うのだが・・・。
そんなことを法要、納骨式の間取りとめもなく考えていた。
式の後は、両親の時もよく使った和風レストランへ車で移動して供養膳となった。午後2時半で食事も終わり解散となった。
普段着に着替えてから、帰路に向かった。帰りは、なるべく明るい内に帰り着きたかったので、どこも寄り道をせず、往きと同様双葉サービスエリアで一度休憩しただけだった。帰りは、諏訪インターで降りて往きと違うルートを走ったが、ナビの指示を無視して走ったら、大きく遠回りになってしまいだいぶ時間ロスをしてしまって、家に着いたら6時半近くになっていた。途中雪の予報も出ていたので心配したが、杞憂に終わり、外は暗くなってしまったが無事家に帰れた。
夜11時を過ぎて外を見るといつの間にか雪が降っていて、デッキも雪が積もって白くなっていた。
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